Tony One Chopper 178

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:: Tony's Column 2004::

2003 2004 2005

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2004 / 01-01:ホワイトアウト 02-01:福は内 鬼も内 03-01:ギルティー・プリー

04-01:ライバル 04-02:タンポポ 04-03:電源ケーブル 04-04:パーフェクト・ピッチ

05-01:カヴァ−の醍醐味 05-02:時が洗い流す 06-01:終わりなき終わり 06-02:名前の命名権

07-01:レーゾン・デートル 07-02:生まれてすいません 08-01:不思議を解くか?驚くか?

09-01:両目をあけろ? 10-01:禅と頓智噺 10-02:謎の団体 11-01:飲尿療法

11-02:火遊び 12-01:エコノミック・アニマル 12-02:東京は感性をすり減らす

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東京は感性をすり減らす

2004.12


今年も最後なので、何となく音楽の話にしてみたいと思います。「東京は感性をすり減らす」このタイトルと同じ
タイトルの本を先日見つけ、2時間立ち読みをした。この本が言うには、音楽、文、デザインなどアートに関わる
人間が東京に暮らすのは悪影響も甚だしいといったもの。夢を求めて上京するも生活に追われ、仕事に追われ…と
いう話はよく耳にするがこれとはまた別の話で、プロになって活躍する人達にも言えることらしい。一説には大都
会である東京に住むことで「感性が刺激に慣れてくる」ことが原因ではないかと書かれていた。確かにそうかもし
れない!僕も一時仕事の都合上で東京に住んでいたが、身に覚えがある!そして無意識のうちに「この街は暮らす
場所ではないなぁ〜」と今でも思っている。5、6年前からインターネットの普及も助けてか、郊外で暮らすアー
ティストが増加してきているのも、無意識にそういうのを感じ取っての行動なのかもしれないね。その本の中にジ
ャンルはバラバラのあらゆるアーティストが答えたアンケートが載っていたのだが、「Q:東京に来て、感性がま
ともに働かなくなった?」という質問でYESと答えたアーティストが何と実に98人。これはもうただ事ではな
いね。長野へ移り住んで音楽活動をしているテイ・トウワ氏が「東京にいる頃は音楽に癒しを求めていた」と語っ
ていたが、自然のない東京、騒音ばかりの東京、音楽(作るものではなく聴くものね)がそんなものから自身をプ
ロテクトするためだけのものになっていたのかもしれませんね。僕の音楽制作も京都と名古屋がフィールドになっ
ているが確かに「自然音」というものの心地よさは大切だと思っている。そういう環境下にいると本当に純粋に音
楽が聴ける。そして酒やムードの助けなくドップリ音楽に浸れる。事務所前の公園から聞こえる音、京都のホーム
スタジオの裏を流れる鴨川の水音、どれもとても心地よく、時にそんな中でとてもいい歌詞やメロディができる。
僕のパートナーのBar878氏のも京都に暮らすうちに知らず知らずに京都を感じさせる音楽を作っている。大
阪には大阪の、京都には京都の雰囲気をもった音楽が産まれるんだから、実に面白いものだ。「東京は感性をすり
減らす」その真意はわからんが、憧れだけで上京するのはアーティストには危険そうやね。ちなみにその本の結末
あたりに「音楽家、文学家/小説家、デザイナーなどアートの分野は様々だが、本誌の統計からみて特に東京に影
響を受け、感性が堕落していっているのはイラストレーターである」と書かれていた。ミュージシャンをはじめ、
タレント、アイドル、そしてイラストレーター、僕の知る限りでもすでに多くのアーティストが東京を後にしてい
る。そして2005年を目処にまたまた東京を離れる先輩ミュージシャンがいる。どうなの東京って?さぁそれで
はいよいよ2005年のスタートです。最後になりますが、この主題に対するコラムの執筆を許可してくれた編集
部の方々、本当にありがとうございました。

 



エコノミック・アニマル

2004.12


アメリカの女性作家でパールバックという人がいる。彼女は子供時代をほとんど中国で過ごし、作品にも多大な影
響を感じることができる。そんな彼女の代表作である「大地」という本の中で貧しい中国人に同情したのだろうと
思われる発言がある。「貧乏人がとてつもなく貧乏に、金持ちがとてつもなく金持ちになってしまった時、貧乏人
はどう対処すればよいかをよく心得ている」というものだ。ヒューマニストな彼女ならではの発言だなぁと思いま
す。ヒューマニストとはその名の通り「人間主義」というもので、それ以上の存在、例えば神様や仏様などの存在
はその一切を否定する。彼女の考えをはじめ、その他のヒューマニストの思考が絶対アカンとは思わんが、疑問も
多く残る考え方やね。ヒューマニズムな思考の世界では、人間というものの価値が全てであるため、優しさという
人間性などは全くもって考慮の外、経済的概念においての大小が判断基準になっているように思う。金がある人間
を引きづり下ろすのが貧乏な人の生き甲斐か?それは違う。両者がいがみ合い生きるのが世の中なのか?それもど
うかと思う。金銭的価値に全てを見い出す人を示す「エコノミック・アニマル」という言葉があるけど、ヒューマ
ニズムな思考が産んだ言葉なのかもしれないね。お金は確かに大事だ。でもそれだけじゃない。名誉も確かに大事
だがやはりそれだけやない。思うに外ヅラいい人間にろくな輩はいない。たいがいそういう人間は身内には嫌われ
ているものだ。何故か?答えは簡単、金こそ万能と信じてる「エコノミック・アニマル」だから、全て金にものを
言わせ名誉すらも金で買う、しかし隣人はごまかせてもいつも一緒にいて、同じ財布の中で生きる身内はその人の
本質にいつかは気付いてしまうものだからね。何より助けても得にならない身内は助けないからね、そういう人間
は。それはそれで淋しいものだ…。心のうすさ、人間性の浅さ、それをカヴァ−するためのお金なんやろうね。

 



火遊び

2004.11


散歩中のこと…スーパーの駐車場の片隅で、小学生3人が周りを警戒しつつ何やらやっていた。気になった僕は軽
く近寄って覗いてみた。その子供達は真剣な眼差しで新聞紙に火をつけようとしている。禁断の火遊びだ。どの家
庭でも必ず怒られるであろう究極の子供の遊びだ。大人の目の届かぬ所で子供はとてつもない冒険をやってのける
ものである。子供は親が考えているよりも遥かに自立していて、親がもっている身勝手な良い子な記憶よりも遥か
に冒険を楽しんでいる。きっと忘れているだけで、親自身だってそうだったに違いない。まだ怖いものなど何もな
い彼らは自分の世界を思い通りに渡り歩き、そして自身の世界をどんどん拡大していく。夏休みや冬休みともなれ
ば毎日彼らは親の許した範囲をちょっとだけ踏み越え、異世界を体験していくんだろう。一般 的に「いたずら」と
される子供の行為は必ずしもダメなものではないんじゃないですかね?その経験は、子供達を未知のフロンティア
へ誘い、必ず後の人生の役に立つだろう。子供ならではのタブーへの挑戦、度を超さない以上はそれを親も心配し
ながらも見守ってあげるくらいの寛大さは必要な気がします。少年3人は新聞に一枚づつ火をつけ、舞い上がる灰
をとても純粋な目で見つめていた。火事になったら大変だけど、あの真剣さを目撃してしまうと「火遊び」も大人
になるための大切な儀式のような、そんな気がしてならない。

 



飲尿療法

2004.11


ある雑誌に「二十万人の人々が毎朝自分の尿を飲んでいる」と書いてあった。彼らの目的は病気を癒し、健康を保
つことにある。まぁ話には聞いていたがまさか二十万人もいるとはね〜驚きだ。でもイスラムの人達は多くが豚食
わないし、そんなもんなんかもしれへんな。さてその記事にはある男性が載っていたのだが、その人なかなか飲尿
シーンのなかでは有名人らしく「飲尿療法ホットライン」なるものを開設し、世界のオシッコ飲みたい人達にアド
ヴァイスをしているそうだ。また重病患者が飲尿療法で健康を取り戻した幾つかのお話からなる「黄金水治療」な
んて本までだしているらしい。ここまでくるとなかなかの者。ちょっとリスペクトに値する。飲む気はないし、飲
みたくはないが、ちょっと興味をそそったので知り合いの医者にいろいろ話を聞いてみたのだが…。彼が言うには
まず第一に「偽薬効果(プラシーボ)はある」というもの。これは人体の自己治癒能力を引き出すキッカケになる
可能性はあると言うことらしい。また第二に「尿は無料だし、脱水症状になるのを防ぐことはできると思う」とい
うことらしい。結論きっと彼もあまり飲尿療法に意味はないと思っているということでしょう。話はとぶけど、イ
ンドの政府要役を歴任したデサイ氏が昔、飲尿療法を国家政策の一環に取り入れようとしたらしいがかなり無理が
あったんやろうな〜だって選挙公約とかで「国民みなさまの健康のため、国民総飲尿化を目指します!」なんてこ
とになったらね〜おかしいよ。国民総出で毎朝オシッコ飲むわけだからね。でもインドや台湾の人達はオシッコ飲
む人結構いるっていうからな〜。日本で育った僕は健康のためでも絶対踏み込めない領域ですね。

 



謎の団体

2004.10


ここ数カ月で以下のような謎の郵便物が京都の自宅に届いた。日本入れ墨協会、ドラキュラ伯爵同好会、京都愛玩
ネズミ教会、国際だじゃれ救済基金、日本えんぴつ普及委員会、米国ローラーコースター推進協会、アムステルダ
ム乗馬愛好会、京都未確認飛行物体研究所…。意味不明でしょ?しかもそのどれもが大抵は入会案内のようなもの
でいろいろと資料が入っていた。そして不覚にもどれを読んでも僕は心が踊ってしまう!何かよくわからんが「入
会したい!」と思ってしまうんやね。まぁそれは置いといて、僕はこのどれしも資料請求をしたわけではなく、ど
こで住所や名を調べたのか、向こうが突然勝手に送りつけてきたわけだ。その後あちこち相談してこの奇妙な郵便
物攻撃の原因を突き止めようとしたんです。探索は失敗。マネージャーも弁護士も某レコード会社の社長にもそん
な郵便物は来ていない。しかし入会資料によると僕は「1万5千人に1人の確率であなたは、京都未確認飛行物体
研究所に入会する資格を獲ました」らしい。ん〜。いたずらか?しかし電話するとかかるし、そのほとんどが実在
する団体で、今も活動している真っ当な団体であることは間違いない。しかし失礼だがこんな団体に加入している
人間が本当にいるのか?世界にいったいどれほどこういった意味不明な組織や団体があるのだろう?そもそもこう
いう団体は仲間が欲しいという心理の現れで、同じものに興味を示し、関心を寄せる人同士が集まり結成される。
僕ら音楽人間が集まってバンドを組んだり、レーベルを発足させるのと同じなんやろうね。他人と違う人間であり
たいと願うミュージシャンやアーティストでさえ、どこかで「自分ははぐれ者やない!!」と確認したいからこそ
仲間同士で集うのだろう。しかし意味不明な郵便物の中に、主催者一人が会員である「世界一匹狼協会」の資料も
あった。もちろん入会案内ではなかった。こいつぁ強いぜぇ〜。それにしても東京の自宅にも名古屋の自宅にも来
ないのに何故に京都の自宅だけこんなに意味不明なものが届くのか?やはりいたずらか?僕も「謎の意味不明郵便
物の受取人クラブ」でもつくろうか…。

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(C) 2003-2006 Halloween Town & UFA-MUSIC KANSAI



禅と頓智噺

2004.10


足利義満が「毎晩、そこにある屏風に描かれている虎がいたずらして困っているから、縛ってくれぬ か?」と難題
を吹っかけた相手は一休さん。しかし彼は臆する様子もなく、縄をもち屏風の前で構えこう言い返した、「さぁ私
が縛りますから、早く虎を追い出して下さい!」。義満は「バカ言うな、描かれた虎を屏風から出せるわけがない
だろう。」と言い返し、一休さんは「出てこないんなら、私も縛ることはできません。」と見事にその難題をかわ
した。有名なお噺だよね。さてこの一休さん、すなわち一休禅師は室町時代の人で、実は有名ではないけど江戸時
代にも一休さんみたいな人間がいたんです。その人の名は、盤珪(ばんけい)といいます。この人も禅師で、「不
生禅」というちょっと変わった禅を広めたことで知られるお坊さんです。ある時、この盤珪の所に「俺は生まれつ
き短気で困っている。どうにか直す方法はないだろうか?」と男が相談にきました。盤珪が「それはそれは大層お
困りでしょうな、ではここに短気をだしなされ直してあげましょう。」と言うと、男は「いや何かあった時にひょ
っと短気が出ます。」と返した。盤珪は大笑いして「然らば、その短期は生まれつきではござらんな、何かあった
時にその短気を外に出してるのはあなた自身ですよ。」と相手の男をたしなめた。短気があるならここに出せ、そ
うすれば直してやるよという盤珪の言葉は、一休さんの虎を追い出してくれれば縛りますよという頓智噺と通 じて
います。アニメとかにもなっちゃってますが、一休さんの頓智噺の奥にはしっかり、禅の精神が息ずいていること
がおわかりでしょ?ただ面白いだけのお噺ではないんですよ。

 



両目をあけろ?

2004.09


結婚式の祝辞によく「結婚前は両目をあけろ、結婚後は片目を閉じよ」という言葉が使われる。これはトーマスフ
ラーという人の言葉なのだが、この言葉どうも納得がいかない点があります。僕は何となくだが運命を信じている
ので、このよーく考えて相手を品定めしてから嫁をとるという考えがどうもね。運命のまま、運命に導かれ、相入
た二人の結婚こそ素晴らしいと思う。男と女の出逢いなんぞは偶然である。そして結婚の後にその偶然の出逢いを
必然のものにすることこそ正解なんじゃないかな?そういえば仏教で「投華得仏(とうけとくぶつ)」というのが
あるんやけど、密教だったかな?入信する信者が目隠しをされ、手に持った華を曼陀羅に投げる儀式で、その華の
落ちた場所に描かれている曼陀羅の仏様がその人の信じていく仏様になるというもの。自分に相応しい仏様を自分
で選ぶんやなくて、運命に任せて仏様の方から選んでもらうって意味らしい。何となくですが、結婚と似てるっぽ
くないですかね?こじつけかな?しかしこのトーマスフラーという人も実は聖職者だったりするので、結構安易に
僕が解釈してるだけでもっとかなり深い意味をもつ言葉なのかもしれませんね。すいません知識不足で。そしても
う一点。これを書くと今までの文がすごくウソ臭くなりますが、僕は結婚自体を信用していません。だって愛に契
約が必要か?かえってその契約に縛られるんじゃないの?って思ってます。

 



不思議を解くか?驚くか?

2004.08


不思議と言った言葉がある。この不思議は、サンスクリット語の「アチントヤ」の訳語で、原語の意味は「思い計
ることができないこと」。国木田独歩は「牛肉と馬鈴薯」の中で「宇宙の不思議が知りたいのではない、宇宙の不
思議に驚きたい」と主人公に言わせている。原語の意味である「思い計ることがないできないこと」を考えるとこ
の国木田独歩の考えは正解だと思います。不思議なことは我々凡人には到底理解及ばないこと。宇宙に関してもそ
うだろう。ただ指を加えて「なんでだろう〜?」と首をかしげるくらいしかできない。今回はそんな感じなお話で
す。この「牛肉と馬鈴薯」の「牛肉」は、理想主義、一方「馬鈴薯」は現実主義を象徴しているわけだが、現実主
義の代表的な人間と言えば科学者でしょ。科学は宇宙に関しても「不思議はない」と主張し、いつか全ての謎はと
けると言う。現在は無理でもいつかは解明されると。宇宙以外でもそう、今はまだ人間の叡智をどれだけ注ごうが
謎のヒモの解けないことでも、科学が発展しさえすれば全くもって問題なしだと考える。手品をはじめ、不思議な
ことに興味を抱いた現代人は、その不思議を驚くことに終止せず、タネあかしに没頭する。手品そのものの持って
いる「不思議」を純粋に驚くことだけじゃ満足いかないのかな?でもきっと「不思議はない」「全ては科学で解明
できる」といった現代科学の影響もあるんだろうね。まぁでも科学の探究心なしにして今の僕らの生活はあり得な
いし、人間として探究することはとても大切なこと。日々の精進を怠り、僕ら音楽家の場合でも「音の抜けが悪い
ねぇ〜不思議だね〜ははは〜驚きだ〜」で終わったらこりゃもう大変だよね。しかし純粋に不思議に驚きを見い出
したいという国木田独歩の考えに賛成です。そう在りたいものです。

 



生まれてすいません

2004.07


「生まれてすいません」これは太宰治の言葉。もしかしたら話(二十世紀旗手)の中のことで、実際は彼の本心の
言葉ではないかもしれないけど。しかし彼は人生に後ろめたさを感じ続け、この「生まれてすいません」を言い続
けて生きていたらしい。幾度となく自殺未遂を犯し、最後には成功してしまいこの世を去ってしまう。そんなわけ
でおそらくこの「生まれてすいません」は太宰治自身の本心を吐露したものだと思います。仏教でも苦しみの一つ
に「生」の苦しみをあげている。他に「老」、「病」、「死」があり、この三つはわかりやすいですよね。前に何
かの本で読んだけど、どっかの学者さんは「生まれてくる時の狭い産道を通ってくる時の苦しみなのでは?」と言
ってましたが、それはなんか違うような気が僕はします。人間として生まれてきた時点でその先、全く苦しみのな
い人生を歩む人間などいない。きっとそういう意味での「生」の苦しみなのだと思います。しかし実際太宰治の人
生を知らんので何とも言えませんが、苦労の絶えない人だったっぽいよね?きっとそんな彼だからこそ、他の人よ
りも「生」の苦しみを感じたのかもしれないですね。「生まれてすいません」…小学校の終わり頃から中学のはじ
め頃かな、僕自身、何度も何度もそう思ってました。あまりいい家庭環境の中にいなかったから、そう思わざるを
得なかったと今ではわかってますが、当時は本気でそう考えてました。学校の裏手にあった用水に「身を投げたら
死ぬかな?」とか真剣に考えてました。なんだか暗い話ですいません、でも今回言いたいのはこの先のこと。今思
うのは「生きててよかった」、そして「死にたくない」です。中学以降も音楽的な悩みや、アーティストである圧
迫に耐えきれず何度か「死にたい」と思うこともありましたが、今は本当に「生きてる」ことが嬉しい。そして健
康に当り前に生きることの難しさを知りました。齢を重ね、感情が「死」や「病」の苦しみを気にするようになっ
たからなのか、問題の家庭環境から解き放たれたからなのか、守るものが増えたからなのか、何なのかはわからん
が本当に生きてるってことは素晴らしい。本日ポッタ−のセカンドアルバム「バウンスバック」発売!

 



レーゾン・デートル

2004.07


「君が良い妻をもてば幸福となり、悪い妻をもてば哲学者になれる」という言葉をものしたのはソクラテス。古代
ギリシャの哲学者ですね。そのソクラテスは、デルフォイ神殿の入り口に掲げられている碑文の銘『グノーティ・
サウトン』を自己の座右の銘としていたという。この言葉本来の意味は「身のほどを知れ!」というものだけど、
ソクラテスはこれを「汝を知れ!」と読み、これを西洋哲学の根本命題として掲げたのである。その際、ソクラテ
スは自己と、自己のもの、というものを分けて考え、自己のもの(自分の体や財産、地位 、肩書き等)を自己その
ものよりも大事にしている人々を嘲笑をしたという。僕ら人間の中には肉体とは別 のもうひとつの『真実の人』が
存在しているということだろう。仏教でも社長、教授、アーティスト、公務員だとかいう分類以前の格付けのない
『無位の人間』を自身の中に見極めろと教えている。仮面をかぶらない本当の自分を探すという考えは東西共有と
いうことになるね。誰にでもレーゾン・デートル(存在価値)はある。些細なものであろうが、大きなものだろう
が、各々に個性が有り、各々がそれぞれの特性をもって生きている。でもそれは体面 だけの『仕事』や『肩書き』
や、『特技』の話じゃないんだと思います。「働かざる者、食うべからず」なんてスローガンもあるけど、レーゾ
ン・デートル(存在価値)を労働にしか見出せない人類から産み落とされた言葉なんでしょう。確かに失業して真
面目に職探しもしない人はもちろんダメな人だけど、心身的なハンディキャップを背負い働きたくても働けない人
だって大勢いると思う。レーゾン・デートル(存在価値)を労働のみに見い出してしまえば、働くものだけに存在
の価値があるということになる。そんなじゃなくてもっと心の奥底にある『真実の人』を探し、その中にみんなレ
ーゾン・デートル(存在価値)を見い出すべきでは?そして働ける人は、労働ができることに喜びをもたなければ
ならないんだと、僕自身、自分の体を壊してはじめて知りました。

 



名前の命名権

2004.06


エジプトでは子供が産まれた時、何本かのろうそくにそれぞれ違った名前を書いて、最後まで燃えていた名前を子
供につけるという風習がある。まるで「あみだくじ」で名前をつけるがごとく適当な感じだが、これにはとっても
重要な意味が隠されていた。日本では、親が良しとする名前をつけるけど、これでは親の希望や信念を100%継
いだ名前をつけられてしまうことになる。エジプト人はそう考えたわけだ。確かに日本では名前だけではなく、子
供が成長していく過程で、生き方、性格、進路など様々なものを親が子供に押し付けていく。大学進学を無理強い
する親、独り暮らしを阻止する親、就職先を自分で決めさせない親、自身の物差しで判断し善悪を押し付ける親な
どなど様々だ。まぁ近頃ではそういうタイプの親もかなり減ってきてはいるが…。さて、話は戻るんやけど、エジ
プトでは、まだ意志表明のできない赤ん坊の発言権の代わりとして「ろうそくくじ」による命名を考えたそうだ。
なかなか持っていい考え方だと思います。日本のおとんやおかんももう少し子供の生き方に「自由(この場合は自
分に由るという意味でね)」を与えてあげたらいいよね。「自由」というものは決して簡単なものではないし、逆
に親が綺麗に敷いたレールの上を歩くよりもずっと人生ってものが身にしみるはずです。おとんやおかんも大人に
なるまで生きてきたわけなんやから、きっとそれくらいのことは理解できるんやないかな?自分で悩んで自分で決
めて進む人生、その重みに気付かせてあげなくちゃ社会は渡っていけませんよ。子供の人生のために用意周到なプ
ランを立ててあげる前に、子供の意志を尊重すべき。間違いを正すにしても親の物差しで計っちゃダメでしょ?

 



終わりなき終わり

2004.06


僕の好きな本の終わり方、それは終わりがないこと。CDでも同じだ、いつの間にかリピートして自然に最初に戻
っているという感じのものが理想。ジーェムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は物語の途中のすごく中
途半端なところで句読点も何もなく突然終わっている。これは冒頭の未完の文へと回帰していっていると言われて
いるが、ジーェムス・ジョイスはそれについて何も語らないので事実は不明。きっと読む人の自由にということだ
ろうね。でもこういう物語が輪廻している形式というのが僕は大好きです。『トニ−ポッタ−&ザ・フレンズ』の
1stアルバムの意味不明な終わり方、あれもネタを明かせばその『フィネガンズ・ウェイク』。7月に発売の2
ndアルバムの終わりも面白いことになってます。しかし楽しみが減るのでこれについてはまだヒミツにしておき
ます。さて全然話は飛びますが、あなたは子供に絵本を読んであげた経験はありますか?あるという方は多分経験
しただろうと思いますが、話がいくらハッピーエンドで、めでたしめでたしとなっても彼ら子供は僕に問いかけて
くる。「その次はどうなったの!?」とね。謎が全て明らかになっても。犯人が割れても。みんなが幸せになって
も子供の思考の中でそれらの物語に終わりはない。ある意味、僕らにとって面白くも何ともない『シンデレラ』や
『ピーターパン』の続編というのは案外こういった子供のことを思って制作されたものなのかもしれませんね。デ
ィズニーも侮れんね。そしてそんな子供達は毎日同じ本を読んでもらっても全く飽きない。ただ記憶力が曖昧とい
ってしまえば終わりだが、日々の輪廻、くり返しの中で飽くことなき欲求を持ち続ける子供は素晴らしいと思う。
同じ生活の中できっと毎日何かを発見して生きていくのでしょう。ちょっと大袈裟なんやけど、とても大人にはマ
ネできないことだよね。『トニ−ポッタ−&ザ・フレンズ』の2ndアルバムを聴いて、忘れてしまった『終わり
なき終わり』を少しでも思い出してくれたらなと思います。

 



時が洗い流す

2004.05


長谷場くんの、そして僕自身の友人でもある女の子が数年前、事件に巻き込まれてこの世を去った。先日ふとその
女の子のことを思い出し「どうして忘れていたんだろう?」と思った。そういえば一昨年亡くなった我が家の愛猫
<フィル>のこともいつの間にか毎日思い出さなくなっていた。人はこうして去った人間、過去の人間を忘れてい
くのかと思うとただただ淋しい気持ちになった。インドの神話でヤマという神がいる。ヤマはもともと神ではなく
て人間第1号。そのヤマにはヤミ−という双児の妹がいて二人は結婚して夫婦となった。人間第1号なのだから当
然、近親相姦にはなるわけが、最初の男女なのだから仕方ないでしょう。ヤマが死んだ時、ヤミ−はひどく悲しん
で「ヤマは今日死んだ」と言って彼の事を忘れなかった。その頃、まだ昼と夜というものが世界にはなかったから
毎日が「今日」だったのだ。ヤマを忘れることの出来ないヤミ−を可愛そうに思った神々は「夜」を創り、「夜」
ができたことによって「翌日」ができた。翌日になるとヤマの死は昨日になった。そして昨日が一昨日になり、一
週間前になり、一ヶ月、一年と時間は流れてヤミーはヤマのことを忘れることができた。古代インドの「昼夜誕生
の物語」である。夜がなく、1日というものがなければ僕もあの子やフィルのことをいつもいつも思い出しては悲
しんだんだろうか?時が苦痛を洗い流すとは言うが、忘れてしまうというのは僕的にはとても悲しい気がする。で
もきっと亡くなった人達も、いつまでも悲しみに暮れている僕らのことなんて見たくないだろうし、立ち止まらず
前に進んでいくことを望むでしょう。そういえばヤマは人間第1号、そして死者第1号だね。

 



カヴァ−の醍醐味

2004.05


「阿弥陀経」というのをみなさんご存じでしょうか?そこには阿弥陀様のいる仏の世界のことがいろいろ描写 され
ている。「地中蓮華大如車輪。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔」意味はと言いますと、極楽
世界に七宝の池があって、そこに車輪くらいの蓮の花が咲いています。青いものは青く、黄色いものは黄色く、赤
いものは赤く、白いものは白く光っていて、とっても素晴らしい。ついでに香りもいい!なんて感じ。まぁ当り前
のことやないか、と思う方が多いかと勘ぐれますが、まさにその通りなんです。「阿弥陀経」のこの「青色青光」
が言わんとしているのは、青いものは青い光を、赤いものは赤い光を放つものと教えているのです。人はそれぞれ
性格も違い、個性や才能もまた人それぞれ。他人の真似をする必要はないよと。確かに素晴らしい人間を師匠と讃
え、先生と仰ぎ、その方達の生き方などを参考にするのはとてもよいことです。音楽でもそう、素晴らしい音楽は
カヴァ−してみるとまた違った発見ができるし、とても勉強になります。でもそればかりではダメだよと阿弥陀様
は言ってはるんでしょう。ちょうど4月に「パーフェクト・ピッチ」の話で書いた知り合いの「絶対音感」をもっ
た女の子も、音楽制作を開始した最初の頃、耳コピーの才能に恵まれたがために僕の曲やフレーズをメキメキ吸収
し、「このままでは僕になってしまうのでは!?」と思う程にコピーしてました。しかしその先が心配でした。い
くら耳コピーの才能に恵まれていても「彼女自身の音楽」が開花しなければ意味がない。そのまま進めば、ただの
「真似る才能」で終わってしまう。まぁ現在では彼女自身の音楽性というのも幾分開花してきているので、彼女に
関しては問題ないんですが。一応「パーフェクト・ピッチ」の話からの流れを考えて今回このテーマに来たんです
が、もう真意はおわかりでしょうか?そうです、人間には個性があり、他人の真似をする必要なんてないんです。
ここ数年カヴァ−曲が増えていますが、自分自身の音楽性をその中に取り込み、その曲のオリジナル作品との化学
反応を楽しむ、それでこそカヴァ−なんじゃないんでしょうか?僕はカヴァ−の醍醐味はそこにあると思っていま
す。個性が輝いている音楽は、本当に素晴らしいものです。カヴァ−をする際、そこに自身の音楽性をちょいと混
ぜてフラスコを振ってみてはどうでしょう?また入りきらない方はビーカーにでも…。

 



パーフェクト・ピッチ

2004.04


年始の忙しさにかまけて更新をサボリぎみだった分、今月は暇な時間も結構あるので「コラムをたくさん更新する
ぞ!」と思ってはいたが、4つも更新するとは思いませんでした。さてさてそれでは、今月最後のお題はと言いま
すと「パーフェクト・ピッチ」。いわゆる「絶対音感」。僕自身、絶対音感は持っていないが、それに近いものは
あると、メジャー時代のトレーナーさんや、師匠達に言われたことがあるが…どうなんでしょ??「パーフェクト
・ピッチ」とは、音を相対的に把握するのではなく、周波数・ピッチごとに厳密に聞き分ける感覚。またラベリン
グといって、上のように聞き分けた音に12音の音名の名前を付けることができる感覚がある。僕が人ゴミの中で
あらゆる音(人の会話や町の音楽、車の音やノイズ…その他)が不協和音をつくり、長時間いると気分が悪くなる
んですが、あれがまぁそのラベリングに近い事のようです。信号の音や、車のクラクションが音名で聴こえてくる
んで、とても気持ちが悪いです。まぁ神経質になり過ぎてるのもあるかとは思いますが。あとジャズのライブなん
かで飛び入りでセッションをしている時に、演奏者があまり上手くないと、楽器同士のチューニングがおかしくて
気持ち悪いです。僕の知り合いでも完全な「パーフェクト・ピッチ」をもった女の子がいますが、本当に驚き。一
度聴いた曲はすぐにコピーするし、それどころかドラム、ギター、ベース、キーボードそれぞれのアレンジもある
程度完璧に再現します。しかしそれが故、僕ら並みのへっぽこパーフェクト・ピッチャーには考えられない程の苦
労もあるようです。その子が田舎から出てきた頃、麻布の交差点であまりの不協に気分が極度に悪くなり、吐くの
を目の当たりにしました。その時まだその子の才能に気付いていなかったのでかなり焦ったのを覚えています。彼
女が「音楽の授業で移調したときに、ハ長調以外の調でも、ドレミファソラシドといいながら歌うのがすごく気持
ち悪くて辛かった。」と言っていた。僕にはそこまでの経験はないけど、きっと毎日の生活が辛いんだろうな〜。

 



電源ケーブル

2004.04


電源ケーブル、実はこの部品と言うかケーブルが意外にも音楽や映像に大きな影響を与えている。何だかんだと高
価な機材を変え揃えるよりも、電源ケーブルを変える方がリーズナブルに変化を体感できると思うのでお薦め!と
アマチュアの宅録アーティストや、映像やってる人達にはお勧めしてはいる。試みた人達からは「スゴク良くなり
ました!」という話を聞くのだが、まぁ彼ら自身のやる気や追求心の度合いによるので、中途半端なヤツらはハッ
キリ言って、半年経っても1年経っても試さない。クオリティアップに興味がないんやろうね、なんとも淋しいこ
とだ。騙されたと思って変えりゃいいのにさ。それにしても何故、電源ケ−ブルを変えるとサウンドや映像に影響
があるのか?考えられるのはプラグ部分に使われる素材。また電源とは言えどもコネクターの一種なので、接触に
よっても伝達される要素の影響もでてくるんだろうと思います。まぁ当然のことなんやけど、差し込む部分の加工
がしっかりされている方がよいんでしょうね。そして何故かクオリティの高い電源ケーブルのプラグ部分を覆うケ
−スはクリアタイプ(透明)が多い。これもきっと何か影響があるのでしょう。わからないけど。一般 的に購入時
についている電源ケーブルは格安のものがついている。今まで電源ケーブルにこだわってなかったなんてアーティ
ストの方、何となくな気持ちで交換してみてはいかがでしょうか?きっと最初から付属されているものとは違った
効果が感じられるはず!クリアな音像になるもの、派手なサウンドになるもの、ガツンとパワーがでるもの、安定
した低音を得られるもの、落ち着いたサウンドになるもの、本当にいろいろなタイプのものがあります。高価なも
のも多いのであまり高くないものから順々に試してみてはいかがでしょうか?

 



タンポポ

2004.04


春らしくなってきました。自宅前の公園にもタンポポが咲き、風が心地よい季節です。まぁウチの苺はまだ実をつ
けませんが…春です。昨日、公園を散歩していると小学生くらいの女の子が両手にいっぱいのタンポポを摘んでい
た。「タンポポ」は世話をするまでもなくある日咲いている。要するに手間いらず、タンポポが僕の生活の邪魔を
することはないし、僕もタンポポの生態系をこわすような怖れもまずないだろう。勝手気ままにあちこちに根を下
ろし、自由に育っている。そんな多年草タンポポを「雑草」として世の中の大半の人は扱っている。場所を選ばず
どこにでも生えるからだろうか?キク科のタンポポはレタスやチコリの仲間であり、アメリカの方ではサラダやコ
ーヒーやお茶にして飲む。病気、害虫、雨風、熱さ寒さに強く、また人間に対してもかなり高い抵抗力をもってい
る。これが僕が知る限りのタンポポである。きっとタンポポもなかなか手に入らない希少な花ならば1本800円
とかで売買されるんだろう。おばさんは温室で丹青こめて育て、年に一度の品評会なんかも催されるんだろう。し
かし実際は、日本全国、いや世界中どこにでも生えてしまうタンポポに価値はなく、売られるなんてことは少なく
とも日本国内では見たことがない。しかし両手にいっぱいのタンポポをもってウキウキの女の子には十分「花」で
あり、確かにタンポポが「花」であることにも間違いはない。果たしてタンポポは「花」なのか「雑草」なのか?
しかしここで考えてみて欲しい。タンポポは無料である。公園の女の子のようにどれだけ摘もうが無料である。こ
の無料大サービスは何よりも強い。花であれ、雑草であれ、ヤツらは立派だ。

 



ライバル

2004.04


ライバル。好敵手。この言葉は競争相手って感じの人に対して使う言葉である。しかしその語源を知ってるでしょ
うか?語源はラテン語の”リ−ワ−リス(同じ川の水を使う者)”。まぁ仲間なんて意味もほんまは含まれるっち
ゅうことですね。日本的に言えば”同じ釜のメシを喰った仲間”って感じでしょうか?確かに近隣の人間関係とい
うものは案外いろいろいざこざもあり、近い人間同士程、反目しあうもんであります。まぁお隣さんの成功はねた
ましく思えるもんですからね。逆に”隣の不幸は鴨の味”って言いますからね、かなりなもんだよね、こうやって
考えてみると。それもこれもその人間関係上に”ライバル意識”がある。ラブ王国はある意味、インディーズ市場
的に言えば、アルバム「国会中継」でかなりの成功を治めたと言えるだろう。こうなりゃ圧倒的にひがみやねたみ
の類をもって接してくる奴らの方が多い。でも本当の仲間、本当のライバルなら、その成功をもっと喜んでくれる
だろう。事実上「いい作品だね!」「マリリンかなり頑張ったんやね!」と自分のことのように喜んでくれる人も
少数だがいた。きめ細かな感想をビッシリ電話で3時間も語る奴もいた。ちょっと直接マリリンに言えよとは思っ
たが…。ライバルとは、同じ川の水を使う者。ラブ王国のことでも悩んだり考えたりいろいろあったが、そのこと
を肝に銘じて生きていこう、僕自身心からそう思いました。その川に毒が流されればライバルどころか、自分も死
んじゃうんだからね。僕は思う、「ウサギと亀」の話で居眠りをしたウサギを起こしてあげて、共にゴールをしな
かった亀はなんて友情にかけた亀なんだと。まぁさぼるウサギもウサギだけどね。

 



ギルティー・プリー

2004.03


某宗教団体の元教祖の終身刑が決まった。悪いことをしたのだから当然、それ相当な罰則があるのは当たり前。し
かし人間が人間を裁いちゃうというのはどうかな?とも思いますね、僕は。まぁその元教祖はちょっと度が過ぎた
ことしたんやから仕方ない判決だとは思いますが、裁判の目的は単に社会秩序を守るためにやることでしょ?犯罪
人を罰することが目的ではないなら、日本もアメリカのように取引がなされてもいいようなものである。ご存じか
はわかりませんが、アメリカの裁判は「陪審裁判」だと言われてますが、実際はそんなのはほとんどないんです。
大半の事件が、被告人からの有罪申し立て、いわゆる「ギルティー・プリー」で決着が着く。被告がこの「ギルテ
ィー・プリー」をすれば陪審裁判にはかけられず、検察側から犯罪事実として提出されるものを少なくしてもらい
刑を軽くして貰えるというわけ。なんかとっても裏取引な臭いがするけど、本当のこと。しかもこんな手口、堂々
と公表されてます。「本当に悪いことした奴は俺達が許しても、神様がゆるさねぇよ!」という考えのもとにある
裁判なんだろうと思います。だから平気で被告と検察が取引しちゃう。日本人ももう少し頭柔らかくなるといいと
つくづく感じますね。何もむきになって「あんたは悪いヒト!」とかってやんなくてもね〜。くり返すようですが
本当に悪い奴なら、神様はいるかどうかわからんが、きっとどっかでヒドイめに遭うはずです。世の中そんな物で
しょ?頑張れば頑張った人生が、サボったらサボった人生が、良いことしたら良いことした人生が、悪いことした
ら悪いことした人生が待ち構えています。とりあえず今日を精一杯生きましょうって締めでいいんかな?

 



福は内 鬼も内

2004.02


2月です。豆まきです。「鬼は外 福は内」です。先日、街を車で走っていると、節分祭りの宣伝カーがスピーカ
ーから「福は内 福は内 2月3日は…」と放送しながら走っていました。ふと感じたこと、確かに「鬼は外 福
は内」ではかなりのエゴイストだ。本来、節分というものは国外から流れ込んできた疫病(厄病神)を追い払う為
の祭事。「鬼は外」ではとなり町に疫病(厄病神)が行ってしまうではないか!気になり少々この節分なるものを
調べてみた結果、いちばん僕なりに納得できて、しっくりきたのが『奈良の蔵王堂』で行なわれる節分。ここでの
例のおきまりフレーズは「福は内 鬼も内」である。福といっしょに鬼もひとしきり集めて、お経でもって改心さ
せてしまおうなんていう、かなり無謀な奈良人らしい発想だが、仏教の慈悲の精神によく通 じている考えだと思い
ます。先月の「対極」の話にも少し通じることなんですが、鬼と福を差別して、福だけを求めて、鬼はぜんぜんい
らないなんてちょっと貪欲でエゴイズムなのかもと思えてきませんか?でも仏教的見解でいえば、とりあえず事物
を対立的にとらえることをまず×としているわけやから、結局のところ鬼も福も設定したこと自体があかんような
気しますが…どうなんやろうね?とりあえず今年の豆まきは「福は内 鬼も内」でいってきましょう。

 



ホワイトアウト

2004.01


みなさんは、ホワイトアウトという言葉をご存じでしょうか?多分ほとんどの人が知らないと思いますが、これは
気象用語で、南極などで晴れの日に薄い雲が上空を覆っている時などに起こるらしい。まずは太陽の光が雲に乱反
射しますよね、それが今度は下の雪や氷にも乱反射を起こす。その結果、どんなことになてしまうと思います?辺
り一面が真っ白な「光の世界」と化してしまうのです。なんだがメルヘンな感じやな〜と一瞬思うかもしれません
ね。でもよくよく考えてみて下さい、辺り一面「光の世界」=「影のない世界」なんです。そうなると距離感はお
ろか、方向もわからんようになってしまうそうです。自分がどういう地形にいて、どっちを向いていたのか?その
全てがわからなくなるわけです。つまり「影」がある故に僕らは物を見えているということです。光は物を見るの
に重要なものですが、ホワイトアウト現象を頭に入れて考えてみると、「影」も物を見る為に必要不可欠な要素な
のです。前に「洗濯」の話で、汚と清、水と火など「対極」についてお話しましたが、この光と影というのもその
ひとつですよね。光が幸福の象徴であるのに、対して影は不幸の象徴。僕らは幸福を強望し、不幸を避けます。し
かし不幸を知らずして、幸福の本当の価値なんぞを知ることができるでしょうか?もし不幸というものが無くなっ
たら、僕らはもう幸福になれないかもしれない。少なくとも幸福に対する価値観は減るでしょう。音楽でも同じよ
うなもので、曲を作るということはとても大変で苦しいものです。しかしその大変な努力と産みの苦しみがあるか
らこそ、完成した時の喜びと、認められた時の達成感が得られるのです。人生についても「影」は全身全霊で受け
止めて、しっかりと見つめることによって道が見えてくるんじゃないでしょうか?


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